なぜ今、阿蘇の草原再生なのか
阿蘇の草原再生、これまでの取組み
千年の草原を子供たちに引き継ぐために
そして、阿蘇の草原再生へ
 

阿蘇の草原千年の歴史を紐解く
 
  阿蘇の草原が正式に歴史文献に登場するのは、約千年前に作成された平安時代の法律である「延喜式」からですが、阿蘇ではそれよりも前から稲作が行われていたようで、縄文時代の遺跡も多く見られます。昔の人々は稲作に代表される農業を営み、それと密接に関わる役牛や軍用馬などを飼育するために、また、農業に欠かせない肥料を生産するために、草原を維持してきたと考えられています。
 阿蘇の草原が今あるのは、地域の人々がなりわいとして、放牧、採草、野焼きといった営みを続けてきたことによるものです。
その長い歴史をご紹介します。
(参考文献:「一の宮町史 草原と人々の営み」、大滝典雄著、一の宮町発行)
阿蘇の草原の歴史
(弥生時代)
 この頃から阿蘇地方でも稲作が行われていたと推測されている。
720年
(奈良時代)
 日本書紀に、阿蘇には草原が広がっていたことをうかがわせる記述が記されている。
  日本書紀 −景行天皇の治世十八年目のこと−
「天皇は九州各地を経て阿蘇の国に来られたが、野は広く遠く、人家が見えなかった。天皇が「この国に人はいるのか」と仰せられたところ、阿蘇都彦(あそつひこ)・阿蘇都媛(あそつひめ)の二神が人の姿で現れ、「われら二人がいます。どうして人がいないものですか。」と述べた。(意訳)」 このことより、阿蘇では当時遠くまで見渡せるほど野(原野)が広がっていたものと推定される。
905年
(平安時代)
 法律「延喜式」第二十八巻(兵部(軍事関係)の項)に阿蘇の牧野に関して記述が見られる。
  延喜式では、肥後の国の「二重馬牧(ふたえのうままき)」と「波良馬牧(はらのうままき)」という、阿蘇郡内と推定される地名が記載されたあとに、「肥後の国の二重牧の馬は、もし他の群より優れた馬があれば都に進上し、他は大宰府の兵馬及び肥後国その他の国の駅馬として常備するように。(意訳)」と記されている。このことから、 当時阿蘇では優れた馬を生産する牧(原野)があり、その名が中央政権まで知られていたと判断できる。
1633年
(江戸時代)
 肥後の藩主として、加藤氏に代わって細川氏が入国する。この時に、細川氏は加藤氏の制度にならって、「催合(もやい)」という原野を共同利用する制度を認めている。この催会とは今日で言う原野の入会利用のことである。
(明治後期まで)
 草原の草は牛馬の飼料としての秣(まぐさ)、水田の肥料としての刈敷(青刈の草を緑肥として使う)、茅葺き屋根の材料、堆肥作りの原料などとして利用されていた。一方、田畑の耕起には牛が利用されトラクターの役割を果たした(役牛)。
1906年
(明治39年)
 阿蘇農学校でスイス産のシンメンタール種という牛が導入される。在来の牛は体質が強健で性質が温順であり、粗食に耐え、動作が敏活であるという使役に適した美点があったが、反面体格が矮小で、成長するのに時間がかかったため、外国品種との交配により品種改良をすることが目的であった。シンメンタール種は乳肉兼用種であり、乳牛としても、和牛の改良種としても好適、生産国であるスイスは日本の地勢とよく似ている、などの理由から導入された。これ以後阿蘇の牛は急速に品種改良が進むことになり、現在のあか牛が誕生することになる。また、飼育する目的も役牛から徐々に肉牛へと変化していくことになる。
(大正時代以降)
 油かすや大豆粕などの購入肥料が普及。草原の草を緑肥や堆肥として水田に投入する量が減り、水田と草原の密接な繋がりは弱くなった。
1932年
(昭和7年)
 「阿蘇の万里の長城」の異名をとる「土塁(土手)」の構築が始まる。土塁は高さ1.8m程度の断面が跳び箱型のもので、牛馬が隣の牧野へ迷い込んだり危険箇所に立ち入らないようにするために設けられた。鉄などの資材が少ないなかで半永久的な柵を作るために考案されたもので、作業は人海戦術で行われ、ひとりで一日に2m程度作るのがやっとだったそうだ。現在でも多くの土塁が残っていて、地形図上でも確認できる。米塚の中央に走る土塁は目立つこともあり有名で、阿蘇郡全体の総延長は少なく見積もっても500km以上になるという。
1934年
(昭和9年)
 阿蘇国立公園が指定。 公園指定当時は阿蘇中岳の火山火口見物や周辺の山への登山、温泉などが観光の中心であったと推測される。当時の資料で草原のことを紹介しているのが草千里程度で、紹介される数も少ないこと、当時はどこの田舎に行っても使役牛馬のための草原があったことなどから、現在のように草原を見ることを目的に来る人は少なかったと考えられる。
(戦後)
 第二次世界大戦後の建築材不足を補うための拡大造林政策により、阿蘇の草原では特に採草や放牧の困難な急斜面地での植林が進む。また、化学肥料がこれ以後急速に普及し始め、草原の草を緑肥や堆肥として利用することが少なくなり、萱葺き屋根としての草の利用も減少することになる。
1966年
(昭和41年)
 国営大規模草地改良事業が起工。目的は、北外輪山上の広大な草地を牧草化(改良草地化)し、日本の乳牛や肉用牛の大型生産基地として開発するというもの。この事業は昭和48年に完成し、阿蘇は全国有数の畜産生産基地となる。その7年の間で、草地改良が進み、畜舎などの農業関連施設の建設、大型トラクターなどの機械化の進行、昭和45年のミルクロードの完成など、阿蘇の草原にとって激動の時期であった。
1973年
(昭和48年)
 国営大規模草地改良が完成したこの年、オイルショックが起こった。物価の高騰、配合飼料価格の高騰により、畜産農家の経営が困難となる。その後乳価格の低迷、牛乳の生産調整などが重なり、昭和50年代後半になると13あった酪農団地の多くが閉鎖に追い込まれることになった。
1991年
(平成元年)
 牛肉・オレンジの自由化。 これ以後子牛の取引価格が低迷し阿蘇の繁殖農家も大きく影響を受ける。就農者の高齢化もあって牛の飼育頭数、放牧頭数ともに大きく減少した。
2001年
(平成13年)
 国内で初めてBSE(牛海綿状脳症)感染牛が発見される。牛肉業界に与えた影響は大きく、繁殖農家や肥育農家では牛が売れなくなり、阿蘇の畜産農家も大きな影響を受けたと考えられる。
現在 牛肉、乳用牛生産のための採草地、放牧地としての草原利用が主流となっているが、農業者の兼業化・高齢化などに伴い、放牧頭数・草原面積は減少傾向。

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